2013年12月26日
国境石
国道3号線沿い、福岡県と佐賀県の県境にポツンとある「国境石」を取り上げたいと思います。
まず、この辺りに「三国境」という交差点名があるとおり、かつては、筑前国、筑後国、肥前国の境界がここにあたりました。



<国境石について…現地案内板より>
国境石(くにざかいいし)
この境石は、肥前国(現在の佐賀県)と筑前国(現在の福岡県)の境界を示すものとして、文化4年(1807)に対馬藩と黒田藩との話し合いによって建てられました。もとは、ここより東側約15メートルのところに建っていました。しかし、昭和60年度より一般国道3号のバイパス建設が行われたときに、境石の履石(基礎石)と南北の傍示石はマンホールを建設してバイパス地下に現地保存して、その姿をここに復元しました。
当時、境石の建っていた地点は、国境の野地でそこに境界の「標」と考えられる松の木がありました。その松の木が枯れたの機会に境石を建てる議論が起こり、対馬藩は城戸村の庄屋、黒田藩は原田村の庄屋が交渉にあたりました。しかし、枯れた松の位置や野地の分け方について話し合いがつかなかったので境石の建設には、2ヶ年の歳月がかかりました。
境石の南側10.9メートルと北側11.8メートルの地点には、傍示石があります。境石と傍示石は、二本の石柱を背中合わせにし、それぞれ「従是西肥前国対州領(これよりにしひぜんのくにたいしゅうりょう)」「従是東筑前国(これよりひがしちくぜんのくに)」ときざんでいます。また、これらの背中合わせにした線を両国の境界としています。
境石は、高さ2.6メートル、太さ28センチメートル角の石柱で地中の履石にはめこまれています。また、傍示石の高さは、南側のものが1.5メートル、北側のものが1.2メートルです。太さはいずれも18センチメートル角で境石と同様に地中の履石にはめこまれています。
昭和63年3月 建設
国土交通省九州地方整備局


対州とは、対馬のこと。
しかし、対馬国が肥前国に領地を持っていたのですね。知りませんでした。(^^;
三国境ということで、筑後国のものもどこかにあると思います。
まず、この辺りに「三国境」という交差点名があるとおり、かつては、筑前国、筑後国、肥前国の境界がここにあたりました。



<国境石について…現地案内板より>
国境石(くにざかいいし)
この境石は、肥前国(現在の佐賀県)と筑前国(現在の福岡県)の境界を示すものとして、文化4年(1807)に対馬藩と黒田藩との話し合いによって建てられました。もとは、ここより東側約15メートルのところに建っていました。しかし、昭和60年度より一般国道3号のバイパス建設が行われたときに、境石の履石(基礎石)と南北の傍示石はマンホールを建設してバイパス地下に現地保存して、その姿をここに復元しました。
当時、境石の建っていた地点は、国境の野地でそこに境界の「標」と考えられる松の木がありました。その松の木が枯れたの機会に境石を建てる議論が起こり、対馬藩は城戸村の庄屋、黒田藩は原田村の庄屋が交渉にあたりました。しかし、枯れた松の位置や野地の分け方について話し合いがつかなかったので境石の建設には、2ヶ年の歳月がかかりました。
境石の南側10.9メートルと北側11.8メートルの地点には、傍示石があります。境石と傍示石は、二本の石柱を背中合わせにし、それぞれ「従是西肥前国対州領(これよりにしひぜんのくにたいしゅうりょう)」「従是東筑前国(これよりひがしちくぜんのくに)」ときざんでいます。また、これらの背中合わせにした線を両国の境界としています。
境石は、高さ2.6メートル、太さ28センチメートル角の石柱で地中の履石にはめこまれています。また、傍示石の高さは、南側のものが1.5メートル、北側のものが1.2メートルです。太さはいずれも18センチメートル角で境石と同様に地中の履石にはめこまれています。
昭和63年3月 建設
国土交通省九州地方整備局


対州とは、対馬のこと。
しかし、対馬国が肥前国に領地を持っていたのですね。知りませんでした。(^^;
三国境ということで、筑後国のものもどこかにあると思います。