2014年05月14日
善導寺と博多部旧町名石碑巡り(#17)旧蓮池町
今回紹介する善導寺は、久留米にある大本山善導寺のことではありません。
福岡市博多区中呉服町にある、善導寺のことですよ。(^^;

本堂 (2012年6月撮影)
■『博多まち歩きマップ』より引用
浄土宗の宗祖・法然上人の後を継いだ鎮西聖光上人が創建。
豊前彦山にいた鎮西上人が夢のお告げにより、中国から博多へ帰ってきているという高僧を探すため、博多に戻った。
その際、大きな松の木の側で発見した木像を、中国浄土門の開祖・善導大師だということで迎え、お祀りするために建てられた寺。
その逸話を聞きたいと集まった人々に百日説法を行い、博多談義所とも呼ばれていた。
===
しかしながら、久留米の大本山善導寺と関係ないわけではなさそうですね。
今年のゴールデンウィーク明けより、本堂の解体作業に入っています。

老朽化に伴う改築だそうで、昨年にはすでに計画されていたのですね。

また境内には
旧町名の『旧蓮池町』の石碑があります。 (本堂の解体等作業にともない、石碑の場所が移動している可能性あり。)
初め寺町という 元文年間(一七三六〜四〇)よりひらく
元々、この辺は、聖福寺の池があったところらしいです。
蓮の池…蓮池、ですね。(^^;
久々に、博多部旧町名石碑を取り上げましたが、ぼちぼち再開していこうとおもいます。
善導寺
福岡市博多区中呉服町6-24
福岡市博多区中呉服町にある、善導寺のことですよ。(^^;

本堂 (2012年6月撮影)
■『博多まち歩きマップ』より引用
浄土宗の宗祖・法然上人の後を継いだ鎮西聖光上人が創建。
豊前彦山にいた鎮西上人が夢のお告げにより、中国から博多へ帰ってきているという高僧を探すため、博多に戻った。
その際、大きな松の木の側で発見した木像を、中国浄土門の開祖・善導大師だということで迎え、お祀りするために建てられた寺。
その逸話を聞きたいと集まった人々に百日説法を行い、博多談義所とも呼ばれていた。
===
しかしながら、久留米の大本山善導寺と関係ないわけではなさそうですね。
今年のゴールデンウィーク明けより、本堂の解体作業に入っています。

老朽化に伴う改築だそうで、昨年にはすでに計画されていたのですね。

また境内には
旧町名の『旧蓮池町』の石碑があります。 (本堂の解体等作業にともない、石碑の場所が移動している可能性あり。)

初め寺町という 元文年間(一七三六〜四〇)よりひらく
元々、この辺は、聖福寺の池があったところらしいです。
蓮の池…蓮池、ですね。(^^;
久々に、博多部旧町名石碑を取り上げましたが、ぼちぼち再開していこうとおもいます。
善導寺
福岡市博多区中呉服町6-24
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2013年01月13日
博多部旧町名石碑巡り(#16)旧北船町
『旧北船町』(きたふねまち)
(福岡市博多区上呉服町3)

古袖の湊に面した海辺の町で対中国貿易の船の出入りがあった
※こういう石碑は、すでに碑文が読み取れないので、いろいろなサイトをあたっています。(__)
袖の湊は、平清盛が作った、日本で一番最初の人工の港です。
もしこれがなかったら、博多部はここまで発展していなかったかもしれません。
…とされているのですが、それは違うと、異論もあるらしいです。
どういうことかは、さっぱり知りません。

旧金屋小路の石碑から北に歩いてすぐのところにあります。
(福岡市博多区上呉服町3)

古袖の湊に面した海辺の町で対中国貿易の船の出入りがあった
※こういう石碑は、すでに碑文が読み取れないので、いろいろなサイトをあたっています。(__)
袖の湊は、平清盛が作った、日本で一番最初の人工の港です。
もしこれがなかったら、博多部はここまで発展していなかったかもしれません。
…とされているのですが、それは違うと、異論もあるらしいです。
どういうことかは、さっぱり知りません。

旧金屋小路の石碑から北に歩いてすぐのところにあります。
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2013年01月12日
博多部旧町名石碑巡り(#15)旧金屋小路
今日は、久々に旧町名石碑巡り!
『旧金屋小路』(かなやしょうじ)
(福岡市博多区上呉服町3)

太閤博多町割り 七小路の一 博多随一の大劇場「教楽社」があり博多の娯楽場所として大層賑わった
町名の由来は、ズバリ、金物細工師が住んでいたところだからその名がついたそうです。(^^)

東町筋を北に進んでいき、芳澤時計店の隣の建物にあります。
ていうか、時計店は閉店済みなのかな。山笠期間中は芳名掛けになっています。
『旧金屋小路』(かなやしょうじ)
(福岡市博多区上呉服町3)

太閤博多町割り 七小路の一 博多随一の大劇場「教楽社」があり博多の娯楽場所として大層賑わった
町名の由来は、ズバリ、金物細工師が住んでいたところだからその名がついたそうです。(^^)

東町筋を北に進んでいき、芳澤時計店の隣の建物にあります。
ていうか、時計店は閉店済みなのかな。山笠期間中は芳名掛けになっています。
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月26日
博多部旧町名石碑巡り(#14) 旧御供所町
『旧御供所町』(ごくしょまち)
(福岡市博多区御供所町13)

家数二十軒 古昔筥崎八幡宮の御供を調へ奉りし町なる故御供所町と云う
「筑前続風土記」より
追い山笠の通り道であり、承天寺から細い路地である東町筋に入ってほどなくしてある妙楽寺の柵のとあたりにあります。
(福岡市博多区御供所町13)

家数二十軒 古昔筥崎八幡宮の御供を調へ奉りし町なる故御供所町と云う
「筑前続風土記」より
追い山笠の通り道であり、承天寺から細い路地である東町筋に入ってほどなくしてある妙楽寺の柵のとあたりにあります。

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月25日
博多部旧町名石碑巡り(#13) 旧上小山町
『旧上小山町』(かみおやままち)
(福岡市博多区冷泉町4)
日本の独楽の発祥の地 この界隈には寺院が多く建ち並びその塀が長く続く様を博多の人は八丁塀と云った
大博通り沿い、国体道路の祇園町交差点から呉服町方面、人魚伝説の言い伝えがあるの龍宮寺の前にあります。
また、向かい側には東長寺があります。

(福岡市博多区冷泉町4)

日本の独楽の発祥の地 この界隈には寺院が多く建ち並びその塀が長く続く様を博多の人は八丁塀と云った
大博通り沿い、国体道路の祇園町交差点から呉服町方面、人魚伝説の言い伝えがあるの龍宮寺の前にあります。
また、向かい側には東長寺があります。

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月19日
2012年09月18日
博多部旧町名石碑巡り(#11) 旧下市小路
『旧下市小路』(しもいちしょうじ)
(福岡市博多区奈良屋町14)
太閤の博多町割の基本線になった町
博多大商人はこの町筋に集った
大博通り沿い、ムッちゃん万十のお店にあります。

(福岡市博多区奈良屋町14)

太閤の博多町割の基本線になった町
博多大商人はこの町筋に集った
大博通り沿い、ムッちゃん万十のお店にあります。

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月14日
博多部旧町名石碑巡り(#10) 旧萱堂町
『旧萱堂町』(かやどうまち)
(福岡市博多区奈良屋町7)

博多七堂の一つ萱堂山光西寺が町名の由来魚腹地蔵をまつる
大博通り沿い、DSTOWER大博通というマンションから左折する脇道にあります。
大きな地蔵が目印になるかとおもいます。

(福岡市博多区奈良屋町7)

博多七堂の一つ萱堂山光西寺が町名の由来魚腹地蔵をまつる
大博通り沿い、DSTOWER大博通というマンションから左折する脇道にあります。
大きな地蔵が目印になるかとおもいます。

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月13日
博多部旧町名石碑巡り(#9) 旧芥屋町
『旧芥屋町』(けやまち)
(福岡市博多区奈良屋町12)

糸島郡芥屋から来た魚問屋があった
マリンホテル新館の斜め前、町内掲示板の下にあります。
大きな木が目印になるかとおもいます。

今の糸島市芥屋のことですね。当時は村だったらしいです。
毎年開催されるKBCオーガスタでお馴染みの芥屋ゴルフ倶楽部や、今年のサンセットライブがあった芥屋海水浴場など。(^^)
(福岡市博多区奈良屋町12)

糸島郡芥屋から来た魚問屋があった
マリンホテル新館の斜め前、町内掲示板の下にあります。
大きな木が目印になるかとおもいます。

今の糸島市芥屋のことですね。当時は村だったらしいです。
毎年開催されるKBCオーガスタでお馴染みの芥屋ゴルフ倶楽部や、今年のサンセットライブがあった芥屋海水浴場など。(^^)
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月09日
博多部旧町名石碑巡り(#8) 旧奈良屋番
『旧奈良屋番』(ならやばん)
(福岡市博多区奈良屋町6)
練酒の奈良屋九郎兵衛がいた神屋宗湛の屋敷跡が現小学校
神屋宗湛屋敷跡=豊国神社の前にあります。

神屋宗湛(1551年-1635年)とは、戦国時代から江戸時代初期にかけての当時の博多の豪商。
また、豊臣秀吉から「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、千利休と会席する茶人でもあったそう。
豊臣秀吉と箱崎から南蛮船に乗り、焼け野はらとなった博多を視察した。これが町割りのはじまり。
その際、当地に間口13間半、 奥行30間の宅地を与えられた。これが神屋宗湛の屋敷だった。
豊国神社は1887年にその跡地に創建され、豊臣秀吉を祀る。
(福岡市博多区奈良屋町6)

練酒の奈良屋九郎兵衛がいた神屋宗湛の屋敷跡が現小学校
神屋宗湛屋敷跡=豊国神社の前にあります。

神屋宗湛(1551年-1635年)とは、戦国時代から江戸時代初期にかけての当時の博多の豪商。
また、豊臣秀吉から「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、千利休と会席する茶人でもあったそう。
豊臣秀吉と箱崎から南蛮船に乗り、焼け野はらとなった博多を視察した。これが町割りのはじまり。
その際、当地に間口13間半、 奥行30間の宅地を与えられた。これが神屋宗湛の屋敷だった。
豊国神社は1887年にその跡地に創建され、豊臣秀吉を祀る。
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月07日
博多部旧町名石碑巡り(#7) 旧蔵本番
『旧蔵本番』(くらもとばん)
(福岡市博多区奈良屋町)

太閤朝鮮出陣の時 兵糧の米倉があった
昭和通り、交差点の中央地点にあります。蔵本バス停が近くにあるので、分かりやすいと思います。
安全地帯はありますが、くれぐれも車には気を付けてくださいね。(^^;
(福岡市博多区奈良屋町)

太閤朝鮮出陣の時 兵糧の米倉があった
昭和通り、交差点の中央地点にあります。蔵本バス停が近くにあるので、分かりやすいと思います。
安全地帯はありますが、くれぐれも車には気を付けてくださいね。(^^;

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年09月06日
博多部旧町名石碑巡り(#6) 旧下土居町
『旧土居町』(しもどいまち)
(福岡市博多区下川端町1)
袖の湊入江の掘割の土盛りを町名としたるもの為に土居下に古より綱敷 天満宮鎮座し給う
明治通りから土居通りに曲がったあたり(天神・中洲方面からだと左折)、杉田写真館の近くにあります。
放置自転車のせいで撮影しづらかったです。おまけに雨降っていたりでブレブレです。(^^;
(福岡市博多区下川端町1)

袖の湊入江の掘割の土盛りを町名としたるもの為に土居下に古より綱敷 天満宮鎮座し給う
明治通りから土居通りに曲がったあたり(天神・中洲方面からだと左折)、杉田写真館の近くにあります。

放置自転車のせいで撮影しづらかったです。おまけに雨降っていたりでブレブレです。(^^;
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年08月29日
博多部旧町名石碑巡り(#5) 旧綱場町
『旧綱場町』(つなばまち)
(福岡市博多区綱場町5)

綱輪天神を中心に博多最初の商家が集る
土居通りから入った脇道前、佐賀銀行の近くにあります。
綱輪天神とつくことからも、菅原道真と関係なくはないそうで、後に綱敷天神となったという。
実際、近くには綱敷天満宮とついた神社もあります。
(福岡市博多区綱場町5)

綱輪天神を中心に博多最初の商家が集る
土居通りから入った脇道前、佐賀銀行の近くにあります。

綱輪天神とつくことからも、菅原道真と関係なくはないそうで、後に綱敷天神となったという。
実際、近くには綱敷天満宮とついた神社もあります。
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年08月28日
博多部旧町名石碑巡り(#4) 旧麹屋番
『旧麹屋番』(こうじやばん)
(福岡市博多区下川端町2)

麹屋多くこの名が出た 古い商家町
博多リバレイン裏にある、郵便局前にあります。

隣の石碑は、『史蹟 博多郵便取扱所址』。
つまり、博多の郵便局のはじまりは、ここだったということになります。
(福岡市博多区下川端町2)

麹屋多くこの名が出た 古い商家町
博多リバレイン裏にある、郵便局前にあります。

隣の石碑は、『史蹟 博多郵便取扱所址』。
つまり、博多の郵便局のはじまりは、ここだったということになります。
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年08月27日
博多部旧町名石碑巡り(#3) 旧作人町
『旧作人町』(さくにんちょう)
(福岡市博多区中洲2丁目6)
往時 中洲は畑地であり 耕作のために川を渡る橋を作人達がお金と労力を出し合って架けられた橋 作人橋(現・博多橋)に由来
中洲大通り沿い、味の明太子のふくやのそばにあります。
(福岡市博多区中洲2丁目6)

往時 中洲は畑地であり 耕作のために川を渡る橋を作人達がお金と労力を出し合って架けられた橋 作人橋(現・博多橋)に由来
中洲大通り沿い、味の明太子のふくやのそばにあります。

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年07月13日
博多部旧町名石碑巡り(#2)旧社家町
ひとまず、山笠の話題はお休み。
もちろん撮影はしていますよ。
ただ、画像の整理がなかなか追い付きません。(^^;
そんなわけで、旧町名石碑巡りを。(^^)
『旧社家町』(しゃけまち)
(福岡市博多区冷泉町6)

博多総鎮守 櫛田神社の社地で 創建当時からの同宮の神主や巫女の家筋 「社家」が代々住まっていた 櫛田裁縫女学校もこの町にあった
ちょうど、櫛田神社前にある、山笠の山留め地点にあります。

櫛田神社ならびに石碑があるビルの2階には、それを示す石碑・幟類があります
もちろん撮影はしていますよ。
ただ、画像の整理がなかなか追い付きません。(^^;
そんなわけで、旧町名石碑巡りを。(^^)
『旧社家町』(しゃけまち)
(福岡市博多区冷泉町6)

博多総鎮守 櫛田神社の社地で 創建当時からの同宮の神主や巫女の家筋 「社家」が代々住まっていた 櫛田裁縫女学校もこの町にあった
ちょうど、櫛田神社前にある、山笠の山留め地点にあります。

櫛田神社ならびに石碑があるビルの2階には、それを示す石碑・幟類があります
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09:00
│博多部旧町名石碑巡り
2012年07月03日
博多部旧町名石碑巡り(#1)旧祇園町
今日から不定期で『博多部旧町名石碑巡り』をお送りします。
ご存知の方も多いことでしょうが、山笠のエリアでは『○○町』という地名があります。
これは豊臣秀吉による『太閤町割り』による再建で生まれたもの。
この太閤町割りで出来上がった「町」を元に、山笠の町の集まり「流」が形成されたそうです。
この「流」が、今もなお山笠の運営に活かされている訳で、山笠と関係ない訳でもありません。
町名の再編などで減らされていくことになりますが、今でもその一部が残ると共に、石碑は約60箇所近く設置されています。
石碑そのものもまた、何らかの理由でなくなったのも少なくないですが、一通り、紹介していこうと思います。
今日は『旧祇園町』。
『旧祇園町』(ぎおんまち)
(福岡市博多区冷泉町1)

上・下祇園町があり 櫛田神社の奉仕町で同神社の祭神の一つ須賀大神 =祇園宮からこの名が付いた
古 黒田長政と共に福岡入りした鷹匠が住んだところから鷹匠町といわれていた時期もあった。
国体道路(国道202号線)沿い、 馳走屋黒川゛さんの前にあります。
ご存知の方も多いことでしょうが、山笠のエリアでは『○○町』という地名があります。
これは豊臣秀吉による『太閤町割り』による再建で生まれたもの。
この太閤町割りで出来上がった「町」を元に、山笠の町の集まり「流」が形成されたそうです。
この「流」が、今もなお山笠の運営に活かされている訳で、山笠と関係ない訳でもありません。
町名の再編などで減らされていくことになりますが、今でもその一部が残ると共に、石碑は約60箇所近く設置されています。
石碑そのものもまた、何らかの理由でなくなったのも少なくないですが、一通り、紹介していこうと思います。
今日は『旧祇園町』。
『旧祇園町』(ぎおんまち)
(福岡市博多区冷泉町1)

上・下祇園町があり 櫛田神社の奉仕町で同神社の祭神の一つ須賀大神 =祇園宮からこの名が付いた
古 黒田長政と共に福岡入りした鷹匠が住んだところから鷹匠町といわれていた時期もあった。
国体道路(国道202号線)沿い、 馳走屋黒川゛さんの前にあります。

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09:00
│博多部旧町名石碑巡り