2021年02月06日
櫛田会館は○○の跡地だった!山笠が東長寺前を通る理由もここから!
昨日(2月5日)の記事でざっくりと載せましたが、櫛田神社の境内に「櫛田会館」という建物があります。
櫛田会館は令和7年の式年遷宮に向けて、現在の建物を解体させたのち、新しい建物が建てられます。

この櫛田会館が建てられたのは、さすがに明治以降です。
しかし、この建物が建てられる前、ここにはなにがあったのでしょうか。櫛田神社の境内には変わりはありません。
博多祇園山笠の追い山ルートに、大博通りに面した東長寺の前を廻るのはご存知でしょう。
そこには山笠シーズンには清道旗が立てられています。

この先にある承天寺こそ山笠の発祥の地で知られていますが、しかしなぜに東長寺も廻るのですか?
祇園町の交差点を直進すればいいのに、わざわざUの字みたいにクルッと廻るのは無駄ではないですか?
歴史を紐解くって面白いもので…
東長寺は、追い山の始まりのときは休憩ポイントでした。
いやぁ〜昔の博多っ子って、実にのんびり屋さんですね〜。
いまの追い山は5kmあるコースを30分そこそこというハイペースで駆け抜けるのにな〜。(^^)
って、、いやいや…
休憩していたといったそういう記述も残っているらしいけど、それだけでブログの記事にするわけがないです。
……
実はこの櫛田会館が建っているところには、神護寺というお寺がありました。
この神護寺は遍照院という寺号でも知られ、かつては東長寺の末寺でした。
お寺はいまでこそ現在の篠栗町(現「石原山 遍照院」)にありますが、古くは、櫛田神社の境内、すなわち、この櫛田会館が建っているところにあったそうです。
時をさらに過去に戻してみましょう。
東長寺は、806年、唐から帰国した空海(弘法大師)が博多に滞在したときに創建されました。
ずばり、密教が東に長く伝わるように祈願されて「東長密寺」と名付けたそうです。
その後、福岡藩第2代藩主・黒田忠之によって再興されて現在地に移されたことで、黒田家の菩提寺の一つにもなっています。(境内にはいまも黒田忠之の墓などがある。)
東長寺の境内に「六角堂」というのがあります。
六角堂は1842年建立で、弘法大師像の他6体の仏像が置かれています。

この六角堂こそ、櫛田神社境内の神護寺に建てられていたものなのです。
さらに神護寺は、神仏習合の時は櫛田神社を管理していました。
つまり、櫛田神社にはその当時は正式な神官が不在だったので、神護寺の住職が櫛田神社の神官も兼ねていたのだそうです。
しかし、明治初期の廃仏毀釈によって、寺は無住となってしまいます。
そしてさらに明治36年には、本尊だった庚申尊天(県の重要文化財)とともに現在地(前述のように篠栗町の「石原山 遍照院」として)に移ったのです。
前述のように、明治に入ってからの廃仏毀釈によって、六角堂は本山でもある東長寺に移され、櫛田神社はこのときに独立したのでした。
ちなみに、『筑前名所図会』という古い書物の中にある櫛田神社境内を描いた挿し絵が載っていて、このなかで神護寺のあたりに「本地寺」という文字と絵が見られます。この本地寺が神護寺とされているようです…。
▼「筑前名所図会」((注)PDF)の挿し絵
https://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/pdf/d32.pdf
櫛田神社の挿し絵は、この資料(PDF)の7ページにあります。今の櫛田会館のあるあたり(松の木っぽいのが描かれている右下付近)を拡大させていくとわかりやすいかもです。
過去の廃仏毀釈で神社と寺が分離された現代、それでも現在に至るまで山笠と切っても切れない関係なのは、こうした歴史があるからなのですね。
いまの櫛田会館の外観もどことなくお寺の本堂っぽくも見えますねー。
(櫛田会館の解体されたあとに、文化財保護の発掘調査があるかもしれないですが…遺構がどうなっているかも気になりますね。)
▼「石原山 遍照院」の公式サイト…にも解説が載っています。(^^)
http://sasaguri-henjoin.com/index.html
櫛田会館は令和7年の式年遷宮に向けて、現在の建物を解体させたのち、新しい建物が建てられます。

この櫛田会館が建てられたのは、さすがに明治以降です。
しかし、この建物が建てられる前、ここにはなにがあったのでしょうか。櫛田神社の境内には変わりはありません。
博多祇園山笠の追い山ルートに、大博通りに面した東長寺の前を廻るのはご存知でしょう。
そこには山笠シーズンには清道旗が立てられています。

この先にある承天寺こそ山笠の発祥の地で知られていますが、しかしなぜに東長寺も廻るのですか?
祇園町の交差点を直進すればいいのに、わざわざUの字みたいにクルッと廻るのは無駄ではないですか?
歴史を紐解くって面白いもので…
東長寺は、追い山の始まりのときは休憩ポイントでした。
いやぁ〜昔の博多っ子って、実にのんびり屋さんですね〜。
いまの追い山は5kmあるコースを30分そこそこというハイペースで駆け抜けるのにな〜。(^^)
って、、いやいや…
休憩していたといったそういう記述も残っているらしいけど、それだけでブログの記事にするわけがないです。
……
実はこの櫛田会館が建っているところには、神護寺というお寺がありました。
この神護寺は遍照院という寺号でも知られ、かつては東長寺の末寺でした。
お寺はいまでこそ現在の篠栗町(現「石原山 遍照院」)にありますが、古くは、櫛田神社の境内、すなわち、この櫛田会館が建っているところにあったそうです。
時をさらに過去に戻してみましょう。
東長寺は、806年、唐から帰国した空海(弘法大師)が博多に滞在したときに創建されました。
ずばり、密教が東に長く伝わるように祈願されて「東長密寺」と名付けたそうです。
その後、福岡藩第2代藩主・黒田忠之によって再興されて現在地に移されたことで、黒田家の菩提寺の一つにもなっています。(境内にはいまも黒田忠之の墓などがある。)
東長寺の境内に「六角堂」というのがあります。
六角堂は1842年建立で、弘法大師像の他6体の仏像が置かれています。
この六角堂こそ、櫛田神社境内の神護寺に建てられていたものなのです。
さらに神護寺は、神仏習合の時は櫛田神社を管理していました。
つまり、櫛田神社にはその当時は正式な神官が不在だったので、神護寺の住職が櫛田神社の神官も兼ねていたのだそうです。
しかし、明治初期の廃仏毀釈によって、寺は無住となってしまいます。
そしてさらに明治36年には、本尊だった庚申尊天(県の重要文化財)とともに現在地(前述のように篠栗町の「石原山 遍照院」として)に移ったのです。
前述のように、明治に入ってからの廃仏毀釈によって、六角堂は本山でもある東長寺に移され、櫛田神社はこのときに独立したのでした。
ちなみに、『筑前名所図会』という古い書物の中にある櫛田神社境内を描いた挿し絵が載っていて、このなかで神護寺のあたりに「本地寺」という文字と絵が見られます。この本地寺が神護寺とされているようです…。
▼「筑前名所図会」((注)PDF)の挿し絵
https://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/pdf/d32.pdf
櫛田神社の挿し絵は、この資料(PDF)の7ページにあります。今の櫛田会館のあるあたり(松の木っぽいのが描かれている右下付近)を拡大させていくとわかりやすいかもです。
過去の廃仏毀釈で神社と寺が分離された現代、それでも現在に至るまで山笠と切っても切れない関係なのは、こうした歴史があるからなのですね。
いまの櫛田会館の外観もどことなくお寺の本堂っぽくも見えますねー。
(櫛田会館の解体されたあとに、文化財保護の発掘調査があるかもしれないですが…遺構がどうなっているかも気になりますね。)
▼「石原山 遍照院」の公式サイト…にも解説が載っています。(^^)
http://sasaguri-henjoin.com/index.html