2017年03月03日
熊本城を見る2017(#8)隈本城(古城)跡(20170220) #熊本
先月もひっそり、熊本へ。…雨でした。
熊本城の南側、新町の近く。
現在の第一高校の校地内と、戦後に堀が埋め立てられてしまい公園化していますが、これらの一帯にはかつて、隈本城(古城)がありました。
古城跡(ふるしろあと)
加藤清正が今の熊本城を築く前には、この地に鹿子木寂心(親員)の築いた隈本城があり、のちに古城(ふるしろ)と呼ばれた。
この城には、鹿子木氏の後、城氏が入り、豊臣秀吉の九州征伐にあたって、この城に薩州攻撃の本陣をすすめた。その後、佐々成政の居城とし、加藤清正も現在の熊本城に移るまで二十年近く在城した。
(第一高校の国立医療センター側の門の前のある案内板より)
古城堀端公園一帯は、文字通り、戦後に埋め立てられるまでは、古城堀があったのです。
古城堀
熊本城は日本三名城の一つにも数えられ、約九十八万平方メートルもの広さを持つ豪壮雄大な城です。
明治十年の西南の役では薩軍の猛攻撃に耐え、その真価を発揮しましたが、その際天守閣を始め多くの櫓が失われました。そこで、文化庁と熊本市では本来の姿への復元を進めています。
この付近一帯は古城の堀の跡で、戦前の段山を削った土や昭和二十八年の大水害の際の排土で埋められたものです。そのため熊本市は、昭和五十四年度からこの地区の公有化を進めており、将来は浚渫して、旧態の堀に戻すことにしています。
(古城堀端公園内にある案内板より)
熊本地震では、第一高校の正門前に架かる橋の欄干とその下の石積みが一部崩れた以外は、ほとんど被害はなかったもよう。
半年以上も経ってようやく、その撤去作業が始まった感じにみえました。
2017年2月撮影

2016年5月撮影

~~~
石垣には蔦や藻に被われていて、ほとんど整備されていませんが、当時の石垣は残されていて、その積み方もしっかり学べます。





案内板にも書いてあるように、浚渫(しゅんせつ)、即ち、いずれはこの一帯を堀に戻すみたいな、そんな計画もあるみたいですが、地震後の復興費用だけで膨大なので、厳しいのではないかなとも思っています。(もっとも、こうした案内板がいつ設置されたものかも気になるところだとは思いますけど。)
トリビア。。!
古城跡や古城堀端公園の『古城』は“ふるしろ”と読みます。
しかし、その古城堀端公園のあるところの地名は、“古城町(こじょうまち)”と読みます。(^_^)
熊本城の南側、新町の近く。
現在の第一高校の校地内と、戦後に堀が埋め立てられてしまい公園化していますが、これらの一帯にはかつて、隈本城(古城)がありました。
古城跡(ふるしろあと)
加藤清正が今の熊本城を築く前には、この地に鹿子木寂心(親員)の築いた隈本城があり、のちに古城(ふるしろ)と呼ばれた。
この城には、鹿子木氏の後、城氏が入り、豊臣秀吉の九州征伐にあたって、この城に薩州攻撃の本陣をすすめた。その後、佐々成政の居城とし、加藤清正も現在の熊本城に移るまで二十年近く在城した。
(第一高校の国立医療センター側の門の前のある案内板より)
古城堀端公園一帯は、文字通り、戦後に埋め立てられるまでは、古城堀があったのです。
古城堀
熊本城は日本三名城の一つにも数えられ、約九十八万平方メートルもの広さを持つ豪壮雄大な城です。
明治十年の西南の役では薩軍の猛攻撃に耐え、その真価を発揮しましたが、その際天守閣を始め多くの櫓が失われました。そこで、文化庁と熊本市では本来の姿への復元を進めています。
この付近一帯は古城の堀の跡で、戦前の段山を削った土や昭和二十八年の大水害の際の排土で埋められたものです。そのため熊本市は、昭和五十四年度からこの地区の公有化を進めており、将来は浚渫して、旧態の堀に戻すことにしています。
(古城堀端公園内にある案内板より)
熊本地震では、第一高校の正門前に架かる橋の欄干とその下の石積みが一部崩れた以外は、ほとんど被害はなかったもよう。
半年以上も経ってようやく、その撤去作業が始まった感じにみえました。
2017年2月撮影

2016年5月撮影

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石垣には蔦や藻に被われていて、ほとんど整備されていませんが、当時の石垣は残されていて、その積み方もしっかり学べます。





案内板にも書いてあるように、浚渫(しゅんせつ)、即ち、いずれはこの一帯を堀に戻すみたいな、そんな計画もあるみたいですが、地震後の復興費用だけで膨大なので、厳しいのではないかなとも思っています。(もっとも、こうした案内板がいつ設置されたものかも気になるところだとは思いますけど。)
トリビア。。!
古城跡や古城堀端公園の『古城』は“ふるしろ”と読みます。
しかし、その古城堀端公園のあるところの地名は、“古城町(こじょうまち)”と読みます。(^_^)