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2017年11月21日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#11)博多千年門

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、博多千年門(はかたせんねんのもん)を紹介します。


博多千年門は、博多を訪れたお客様を歴史的文化財が残る博多の寺社町エリアへと導くウェルカムゲートです。博多のこれまでの千年の重みとこれからの千年の繁栄を願い、「博多千年門」と名付けられました。地域住民、地元企業、行政が一体となって建設に取り組み、平成26年3月に完成しました。

南側(博多駅側)


北側(寺社町側)





博多千年門
福岡市博多区博多駅前1丁目7  


2017年11月20日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#10)承天寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、承天寺(じょうてんじ)を紹介します。


臨済宗東福寺派。承天寺は仁治3年(1242)に創建。源頼朝によって鎮西奉行に任じられた大宰小弐武藤資頼が寺地を喜捨し、博多に居住して対外貿易に活躍した宋人貿易商の謝国明が大檀越(施主)となり、宋に6年間留学していた円爾(聖一国師)が帰朝後に開山しました。勅許により官寺とされ、西海の巨刹として栄え、盛時には塔頭四十三寺を有したと伝えられています。聖一国師は宋から「うどん」「そば」「饅頭」などの製法を持ち帰り、粉食文化を広めたことでも知られ、さらに770年以上前に始まった博多祇園山笠の起源にも深い関わりがあります。



方丈(本堂内)



方丈から見る洗濤庭
(パノラマ合成)


動画でどうぞ




仏殿側境内では、今年の博多祇園山笠の東流の舁き山の展示や博多織のローポールライトのほか、福岡アジア美術館とのコラボで、シンガポール人アーティストのスーザン・ビクター氏による新作の展示等がありました。








承天寺は今年も一番人気のスポットでしたね。
なかでも、普段上がることができない方丈。その方丈から見る綺麗に整備された洗濤庭での幻想的なライトアップとあり、連日1時間待ちは当たり前という状況が続きました。


萬松山 承天寺
福岡市博多区博多駅前1丁目29−9  


2017年11月17日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#9)妙楽寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、妙楽寺(みょうらくじ)を紹介します。


臨済宗大徳寺派。正和5年(1316)、大應国師の高弟である月堂宗規によって開山されました。山号「石城山」は石築地(元寇防塁)に由来し、はじめは博多の浜辺に建てられました。日明貿易における外交拠点として、遣明使をはじめ外交使節が博多に滞在するときは承天寺や聖福寺などの禅寺とともに宿舎として利用されました。
その後、天正年間(1573〜1591)の博多の大火や戦国時代の争乱に巻き込まれて消失、黒田長政の入国後に現在地に移転再興されました。博多商人とも関わりが深く、境内には博多の豪商、神屋宗湛の墓があります。


園路
園路の両脇に配置する七流の行燈とともに追い山のスピード感を表現したライティング。




開山堂
開山の祖、月堂宗規普禅師をはじめ歴代住職がお祀りされている堂内は、通路と対照的に明るい演出を施す。



方丈




鐘楼とヒマラヤ杉




石城山 妙楽寺
福岡市博多区御供所町13−6  


2017年11月15日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#8)円覚寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、円覚寺(えんかくじ)を紹介します。


臨済宗妙心寺派。円覚寺は、寛元4年(1246)に宋より渡来した高僧、大覚禅師(蘭渓道隆)により開山されました。はじめ、現在の祇園町(当時の矢倉門)にありましたが、天正14年(1586)に時の戦乱・兵火により消失してしまいます。
その後、寛永13年(1636)に聖福寺の境内に基礎を移転し、聖福寺の塔頭寺院となりました。円覚寺には福岡藩立花実山直筆の「南方録」が伝承されており、茶と禅の道場として知られています。郷土に伝わる茶道南方流をより多くの方々に知っていただけるよう、初心者にもわかりやすい指導が行われています。





円覚寺の趣あるただずまいを活かして照明だけはなく山笠をモチーフとした映像によって、山笠の躍動感・壮大さを表現。






梵鐘




瑞松山 円覚寺
福岡市博多区御供所町13−11  


2017年11月14日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#7)葛城地蔵尊

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、葛城地蔵尊(かつらぎじぞうそん)を紹介します。

本尊である梵字が刻まれた石碑は、延喜年中(901〜923年)に地中から掘り出されたもので、その当時は浜辺であった冷泉津の「富士見坂」と呼ばれた当地に地蔵尊として祭られたものと伝えられています。その後、宝珠山の修験者・山伏が鎮護国家のための『葛城入峰』の際には必ずこの地で法華経を詠む霊場となったため、「葛城地蔵」の名を称えるようになったといわれています。
この町には昔から大火事があったことはなく、福岡大空襲でも戦火は手前で止まり、焼け残りました。これは葛城地蔵尊のおかげだと信じられています。また出征した町の青年30名も一人残らず無事帰還し、交通事故でなくなった人もこの町にはいないそうで、「生き残り地蔵」ともいわれています。










葛城地蔵尊 福岡市博多区上呉服町5−148  


2017年11月13日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#6)本岳寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、本岳寺(ほんがくじ)を紹介します。


開創以前の本岳寺は、祇園町(当時の矢倉門)にあり、聖福寺の末寺に属する禅宗「本覚寺」というお寺で、「西昌」という僧が住持していました。この西昌はとても囲碁が強いと評判で、明応5年(1496)8月、京都より法華宗の日因上人が博多に赴き、直談の上、お寺を賭けての碁を囲む事になりました。これに日因上人が勝利を収めたため、西昌は約束通りお寺を譲ったのです。日因上人はお寺を日蓮宗に改宗、山号を先住の名をとって「西昌山」、本覚寺から「本岳寺」に変えたと伝えられています。本堂は大正年間(1912〜1926)に最上稲荷堂と合わせて建立されました。

扁額の金色が輝く山門と参道を疾駆する青いビームの演出のコントラストで山笠を再現。



本堂




最上稲荷堂




ライトアップの期間中、本岳寺に伝承されている「釈迦誕生図」(オリジナルは九州国立博物館に寄託)と「釈迦涅槃図」が特別展示されました。

釈迦涅槃図 中国唐時代


●江戸時代初期の慶安5年(1652)7月に渋谷宗遲より本岳寺に寄進されたものです。
この掛軸の裏書には文政9年(1826)より天保9年(1838)までの13年間質物となっていて、第28世日光上人の代に金子6両(今の時代で換算すると約80万円位)で質屋から受け出したと記されています。※

※お坊さんが示している部分がまさにそれ。その当時、相当お金に困っていたのでしょうかね。
(180度回転。)



釈迦誕生図
レプリカ 原本/福岡市博物館蔵
奥村玉蘭筆 仙厓義梵賛 文政11年(1828)


奥村玉蘭が本岳寺所属の「釈迦誕生図」を当時計画中の聖堂壁画のため模写したもの(玉蘭の絶筆)
●奥村玉蘭/宝暦11年〜文政11年(1761〜1828)
博多の中島(現博多区)の商家に生まれた。幼い時から漢字や歴史を好み、福岡藩の儒学者亀井南冥・昭陽に学んだ。また松永子登や二川相近、聖福寺の仙厓和尚、絵師の斎藤秋圃など、当時の筑前の学者・文化人と交流が深く、中国地方の上方の学者・文化人とも交遊があった。しかし寛政異学の禁で藩に退けられていた亀井派を援助したことでもとで、家業を弟に譲り、大宰府に草庵を建てて住んだ。その後、上方に遊学して絵を学び、また大宰府の旧跡の荒廃を嘆いてその地を買い取るなどの保存にも尽力した。文政4年(1821)に筑前の国の名所・旧跡とそれにまつわる神話、伝説、歴史を綴った「筑前名所図会」を著したことでも有名。


釈迦誕生図 李氏朝鮮時代 15〜16世紀


●当山本岳寺に元禄の頃より300年近く伝承されています。制作されてから400年以上も経過しているにもかかわらず、色彩が非常に鮮やかに残っており、当時の雰囲気を正確に伝え、非常に希少価値の高い画幅です。文化財としての価値も高く、日本の多くの美術館や韓国のサムスン美術館で行われた仏教画の企画展で展示されました。
●オリジナルは痛みが目立つようになり、2005年から2年の月日をかけて京都国立博物館文化財保存修理所で大修復を行い、色彩がさらに鮮明となりました。現在オリジナルは大宰府の九州国立博物館に寄託し、春秋の年2回特別公開を行っています。


西昌山 本岳寺
福岡市博多区上呉服町14−21
  


2017年11月11日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#5)番外編その1

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。

一旦小休止として、番外編です。(^^;




今回の「博多千年煌夜」の前売券ならびに当日券には、バーコードがあらかじめ印字されていました。

このバーコード、前売券ならびに当日券の購入時に、購入窓口で読み取るものではなかったのです。


いままでは、前売券ならびに当日券には、ミシン目があって、各会場ごとの入場券をちぎって、入口で渡して、入場するという方式でした。
しかし、暗闇で紛失するリスクがあり、何よりもエコの時代です。

有料会場の入口で、専用のリーダーにバーコードを読み取ることで、スムーズな入場が可能となりました。
そして、同一会場への再入場も防ぐことができるようになっています。

さらに、公式サイト上で表示される混雑状況にも反映されるという仕組みにもなっていました。
そのおかげで、一部の会場を除いて、混雑の緩和にもなりました。


一石二鳥てなわけですね。


今回のテーマが「博多祇園山笠」ということもあり、飾り山をイメージしたデザイン性のある前売券ならびに当日券になっていて、スクラップブックに貼り付けたくなりますね。  


2017年11月10日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#4)妙典寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、妙典寺(みょうてんじ)を紹介します。

妙典寺は、永徳元年(1381)に筑後柳川で本成院日円上人によって創立されたとされ、当初は円理院と称したようです。日蓮宗の立教開宗350年にあたる慶長8年(1603)、第18世、戒光院日秀上人の代に地元有力者であった立花宗茂の家臣、薦野増時が現地に移し、博多における法華経の道場として、また薦野家の菩提寺として再出発を図ることになりました。現在の本堂と山門は天明5年(1785)、第32世、本妙院日定上人の代に再建されたもので、1945年の福岡大空襲からも消失を逃れ、往時の姿を留めています。






山門と本堂の建築美を強調しつつ、お寺全体で山笠のお祭り感を演出。厳かな雰囲気の山門から続く参道は幻想的なあかりで本堂へと誘います。提灯の温かい光に包まれているような空間・博多祇園山笠の湧き上がるような熱量や勢いを「炎をイメージした光」に注目。










松林山 妙典寺
福岡市博多区中呉服町9-12  


2017年11月09日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#3)善導寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。

承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、善導寺(ぜんどうじ)を紹介します。

浄土宗鎮西派の善導寺は、浄土宗の祖である法然上人の跡を継いだ鎮西聖光上人によって建暦年間(1211〜1213)に建立されました。
善導寺縁起によると、聖光上人が豊前彦山で念仏勧行中、唐僧で中国浄土門の開祖である善導大師が博多へ着く夢を見ます。
しかも英彦山座主の蔵慶にも同じ夢告のあったことから二人で博多津へと急ぎ、やがて松原樹下で善導大師像を見出しました。
この善導大師像をお祀りするために善導寺は創建されたということです。創建当初は「善導寺」という名ではなく、聖光上人による百日間の説法が行われたことから「博多談義所」と呼ばれていました。




再整備された広く綺麗な境内を利用して、博多祇園山笠の舁き手たちが集うイメージを照明演出。また、寺宝の多さにおいて「国中第一也」(続風土記)とされる善導寺の本堂内部を絢爛に照らす。







水子地蔵



光明山 善導寺
福岡市博多区中呉服町6−24  


2017年11月08日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#2)海元寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。


承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊


このなかから今回は、海元寺(かいげんじ)を紹介します。





海元寺は浄土宗鎮西派に属し、応永3年(1396)大蓮社岌山上人によって開山されました。黒田長政公の入国時、現在の博多区千代町辺りから現在地に移されました。境内には閻魔堂と観音堂があり、平成28年6月に建て替えられました。閻魔堂には、槍持ちの源七が京都から閻魔像の首を持ち帰ったと言われる閻魔像が祀られ、観音堂には中呉服町の住人で、観音菩薩を深く信仰していた弥三
次の発願によって作られたという「西国三十三所観世音菩薩」が祀られています。毎年8月16日と1月16日には「えんま祭り」を開催しています。

地獄の支配者とされる閻魔大王と三途の川で着物を剥ぎ取る奪衣婆の像が祀られている閻魔堂と、その隣に祀られる三十三体の観音菩薩の金色に輝く極楽浄土の世界。この隣り合う地獄と極楽の世界の対比をライトアップにより一層際立たせます。



閻魔大王の手前の奪衣婆は「こんにゃく婆さん」として親しまれています。こんにゃくを供えると、子供の病気を治し、母乳の出がよくなるとも。



十王図特別展示
えんま祭りでのみ展示される十幅の地獄絵図、十王図が特別公開された。閻魔大王をはじめとする十人の地獄の大王による死者に対する裁判の様子、地獄の恐ろしさが事細かに描かれている。



子育て地蔵
あまり知られていませんが、海元寺には古くから伝わる子育てのお地蔵さんがいらっしゃいます。名前を「山田地蔵尊」。
親しみを込めて「山田のお地蔵さん」と呼ばれています。(海元寺ホームページより)


山笠の法被姿がなんとも可愛らしいですね。



三界万霊塔

三界とは 私達が生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、万霊とは ありとあらゆる精霊のことです。つまり、三界万霊塔とはこの世のありとあらゆる精霊をお祀りしている供養塔です
自分の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものです
仏様は浄土宗のご本尊、阿弥陀如来です
(現地説明板より)






潮音山 海元寺
福岡市博多区中呉服町10−5
  


2017年11月06日

博多ライトアップウォーク2017「博多千年煌夜」(#1)正定寺

博多ライトアップウォーク「博多千年煌夜」。
寺社の建物や庭園をライトアップすることで歴史的な景観により親しんでいただき、さらなる博多の魅力を発見していただきたいという思いから、2006年からスタートしました。

今年は11月1日〜5日までの5日間開催されました。


今年のテーマは『博多祇園山笠』。
山笠にインスパイアされた光デザインで、博多の鎮守と古刹を装いました。


【有料会場】
承天寺、東長寺、妙楽寺、円覚寺、本岳寺、善導寺、妙典寺、海元寺、正定寺、龍宮寺

【無料会場】
櫛田神社、博多千年門、葛城地蔵尊

このなかから今回は、正定寺(しょうじょうじ)を紹介します。

正定寺は博多区中呉服町にある浄土宗のお寺で、明応年間(1492〜1501)に開基されました。このお寺には、「名島城の切腹の間」と「福岡大空襲時の焼夷弾」の破片が残されています。
また、博多の春のお祭り「博多どんたく」の源流である博多松囃子の「通りもん」の創始者と言われる西頭徳蔵の墓があり、横型の大きな墓石に刻まれた赤文字の「八丁へ」という文字は、江戸時代に独特な絵画を多く遺したことで知られる聖福寺の住職、仙厓和尚の直筆です。


山門の行燈は、山笠の台脚をイメージ。





山門から本堂へ続く11台の足元灯は今回手作りしたもので、光を反射させて地面に光を落とすことで柔らかい光が連続する景色を生み出しています。



山門からまっすぐ伸びる参道と存在感のある本堂。このシンプルかつ力強い構成要素を際立たせる演出を心がけた。
正定寺が位置する恵比須流は11の町で構成され、各町に固有デザインの長法被があります。
こうした地域の個性をひとつになって躍動する恵比須流の山笠のテイストも散りばめた。





本堂




草月流いけばな
草月流の片山健氏によるいけばな。(片山健/1962年に草月流に入門。初代家元勅使河原蒼風、二代目家元勅使河原霞に師事し、
作家活動をはじめる。海外で華展出展及びデモンストレーションを実施するなど、国内のみならず海外でも活躍している。)







※説明文は、一部を除き、博多千年煌夜の公式ガイドブックなどから引用ならびに加筆他したものです。
※画像は事後補正している部分もあるため、実際の見た目とは異なる部分もあります。



見佛山 正定寺
福岡市博多区中呉服町10−14  


2017年10月14日

熊本市内を歩く(#5)森本襖表具材料店

熊本地震から1年半が経とうとしています。えっ、とおもいつつ、早いモンです…。

久しぶりの熊本市内を歩くシリーズ。
今回の記事は、本来ならば、上半期中に公開するべきでした、熊本市中央区鍛冶屋町にあった『森本襖表具材料店』を紹介します。
以前紹介した『富重写真所』とは、至近距離にあります。

熊本城下の古い町並みと町屋が残る、この鍛冶屋町の一角に、『森本襖表具材料店』という、築130年の木造町屋がありました。

玄関の「くぐり戸」や「ばったり床几」と呼ばれる縁台など、特徴的な構造を持つ建物でした。

しかし、昨年の熊本地震で建物が被災。その後の危険度判定では赤紙が貼られました。

6代目になる主は、近所のマンションに移り住みながら、築130年のこの町屋を守ってきたそうですが、雨風が建物が入り込むなど
して、内部も含めて、深刻な状況だったとも聞いています。
結局、建物の修復は行わず、解体を決断されました。


解体工事は今年5月下旬からはじまり、そして、更地になりました…。


解体前の姿だけでも…。

屋根瓦や外壁が剥がれて、シートが被せられているところなど、痛々しくもあり、印象深かったです。




真ん中の建物の左にあるはしごのようなものが、「ばったり床几」ですね。

建物は、熊本市指定の都市景観形成重要建造物でもありました。


そうした中で、くぐり戸やばったり床几などの貴重な部材だけでも後世に残そうと、島田美術館(熊本市)が保存の申し出があったそ
うで、解体を前にしてそれらが取り外されて、搬出が行われたそうだ。取り外された部材は、現在、保管中とのことです。


熊本市中央区鍛冶屋町11  


Posted by けいたん at 10:00名所めぐり熊本

2017年10月12日

1年前のホークスタウンモール跡地

2016年3月末に、約15年の歴史に幕を下ろしたホークスタウンモール。思い入れもあったという方も多かったことでしょう。

ホークスタウンモールの跡地は、三菱地所が計画する商業施設「マークイズ福岡ももち」として、2018年秋の開業を目指し、今年6月から、すでに着工しています。

Zepp福岡やユナイテッドシネマもまた、この地に戻ってきますし、また、マンションも2棟建設される計画となっています。


写真は、ホークスタウンモールの解体も終わり、更地となった姿。ちょうど1年前です。ボーリング調査している姿も見て取れます。
このときは、工事用ゲートが開いていたので、真正面からも撮れました。晴れの日に撮りに行けばよかったなーと、いまさら後悔。



奥に見えるヤフオクドームの規模をみればわかるように、ホークスタウンモールも結構な広さだったことが伺えます。

というか、かつてのダイエーが、ツインドーム計画として、ホークスタウンのあった地にもう1つドームを建設する壮大なプロジェクトもありましたが、ダイエー本体の業績の悪化もあり、その計画は幻と化しましたが…。

事実、ヤフオクドーム(正式名称は福岡ドーム)は、開業当時、株式会社ツインドームシティというダイエーの子会社が運営していました。
その後の歴史は長くなりそうなので割愛いたします。



合わせて、シーサイドももち地区が埋め立てられて、30年が経ちます。
(ある資料によると、埋め立てが完了(竣工)したのは、1986年9月とありました。)

すっかり、埋め立て地だったという実感もわかなくなるほど、シーサイドももち地区の町並みも移り変わってきましたね。(特に、百道浜地区。)
  


Posted by けいたん at 10:00名所めぐり地域情報

2017年08月16日

福岡城跡に幻の天守閣が現れた

福岡市の舞鶴公園で、8月11〜12日の2日間、福岡青年会議所主催の「福岡城夏祭り2017」が行われました。



このイベントで、天守閣を立体的に描いたアルミパネル100枚を組んだ、高さ約13メートル、幅約15メートルの「幻の天守閣」が、福岡城跡の大天守台に組み立てられ、その姿を現しました。

見る角度によっては、本物の天守閣っぽくも、見えなくはなかったです。面白い企画ですね。(^^)









裏側はこんな感じになっていました。



夜はライトアップも行われたみたいですが、撮れませんでした。  


2017年08月10日

熊本城を見る2017(#10)熊本地震から2年目の夏(20170808)

毎日、お暑うございます。暑い日が続くと、ほとんどのことに身が入りませんね。体調を崩しがちにもなりやすい時期ですから尚更です。


さて、8月8日に熊本へ行ってきました。
4月にあった熊本復興飛翔祭以来ですから、約4ヶ月ぶりです。

もちろん、熊本も暑かったです。汗だくになりました。:)
熊本へこれから行こうとお考えの方、水分補給などの熱中症対策はお忘れなくです。



今回は、熊本城の近況からお伝えいたします。


大天守と小天守
大天守の上部の解体作業がほとんど終わりました。沈んでいるように見えるかと思います。
あわせて、小天守も下階の部分を解体する作業がおこなわれています。瓦もほぼなくなっています。

加藤神社から


熊本市役所の14階の展望スペースから



戌亥櫓
今月から、戌亥櫓前の空堀部分が一部開放されて、より近くで、櫓と石垣を見上げるように見ることもできるようになりました。


戌亥櫓の石垣もまた、飯田丸五階櫓の石垣ように隅石だけで支えている部分がありますが、それをじっくり見ることもできます。




飯田丸五階櫓
飯田丸五階櫓は、櫓の下の石垣の本格的な除去作業にともない、先月末からは、櫓の下に新たに受溝台(赤い鉄骨)が設けられました。
『奇跡の一本石垣』も解体されることになり、櫓も解体されたのち、再建される方針みたいです。復元整備事業で復元された櫓だけに…。

現況を見るならば、熊本市役所からだと見下ろす形になるため、その様子がわかりやすいです。



おまけ…天守と宇土櫓
宇土櫓は変わらずです。




といったあたりですかね。今月はもう一回再訪を予定しています。
  


Posted by けいたん at 10:00名所めぐり史跡・遺産関連熊本熊本城

2017年06月27日

那の津往還と那の津幻想

どうもです。今月は更新控え目です。梅雨時はネタが少ないのも事実です。福岡は最近までカラ梅雨だったんですけど、撮影も控え目です。


さて、博多港中央ふ頭のマリンメッセ福岡の近くに、ひときわ目立つモニュメントがあります。

『那の津往還』




博多港引揚記念碑ともよばれています。平成8年竣工。
博多港が引揚の港として果たした役割を忘れることなく、戦争の悲惨な体験を二度と繰り返さないよう次の世代の人々に語り継ぐため、永久の平和を願って建設されています。



そして、博多リバレイン前には『那の津幻想』のレリーフがあります。




「彫刻のあるまちづくり事業」の一環として、昭和62年に現在の博多座前に設置されましたが、実は2013年、福岡市が進める歩道改良工事を請け負った施工業者のパワーショベルが誤って当たってしまい、破損…。
しばらくは保護されていたものの、その後、土台を残して撤去されていました。
制作側と協議を重ねたそうで、移動はやむを得ないですが、無事に再び設置されたようでよかったですね。



と、作品名もさることながら、作品自体もどことなく似ています。

というのも、どちらも、豊福知徳氏の作品です。豊福氏は1925年生まれで、久留米市出身の彫刻家。情報がないですが、ご存命と思われます。


福岡はあちこちにこういうのが点在しています。これだから、町歩きは、面白いんですよね。(^^)


那の津往還
福岡市博多区沖浜町7-1

那の津幻想
福岡市博多区下川端町3  


Posted by けいたん at 10:00名所めぐり地域情報芸術(アート)

2017年03月14日

熊本市内を歩く(#4)富重写真所

熊本市内を歩く。4回目の今回は、新町にある「富重写真所」です。

上野彦馬のもとで写真術を学んだ初代の富重利平が1866年(慶応2年)に柳川で開業したのち、1870年(明治3年)に熊本市新町へ移転しました。
以来、熊本の近代を語る写真の数々を撮影し続け、今日に至っています。

そうした経緯から、日本最古の写真館とも言われています。

富重写真所の坪井川沿いに面した木造建物は1877年(明治10年)築(西南戦争で焼失するも同地で再築されたのが現在の建物)で、木造2階建ての建築となっています。
当時は、ガラス屋根を透過した光をいったん床に当て、バウンドさせた光を再度、壁面で捉え被写体を照らして、立体感を作り出す仕組みとなっていたようです。
また、文化庁の登録有形文化財、熊本市の景観形成建築物の指定を受けています。

万歳橋から見る建物。



周囲はすっかりビルやマンションなどになりましたが、当時はどんな光景だったのでしょう。

なお、熊本県教育委員会の調査報告書によると、写真の原板が842点、写真1176枚、カメラ機材379点など、膨大な資料が写真館に伝わっているという。
そうした1000枚を超える数の写真には、明治期の人や風景、さらには西南戦争の戦跡まで写されており、当時の熊本の姿がわかるのだという。(その半数近くが、県立美術館の収蔵庫に保管されています。)

写真館の正面にあるガラスケースには、いずれも明治期、富重写真所で撮影された小泉八雲らの肖像写真、そして、西南戦争で焼失する前の熊本城天守閣の写真が飾られています。
ちなみに、夏目漱石らもここで肖像写真を撮影されています。


(シャッターが下りていたので、道路側の建物の正面がちの写真は撮っていません。)

建物内部もそうですが、貴重な写真の数々も見てみたいものですね。


富重写真所
熊本市中央区新町2-8-5  


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2017年03月10日

熊本市内を歩く(#3)西村邸

熊本市内を歩く。3回目は、西村邸です。古町エリアです。

西村邸は、明八橋そばの坪井川沿いにあり、南側の道路に面して倉庫が設けられ、北側の坪井川に面して住宅が建てられています。
大正6年(1917年)築とのことで、今年で100年を迎えます。

住宅は木造2階建てで、住宅内部の床・壁・天井に数寄屋風の意匠が使われています。
また、もともと油商であったため、敷地の東西のレンガ造の防火壁に特徴。
特に、東側は2階建ての外観に合わせた煉瓦壁になっています。

2010年には、熊本市の景観重要建造物の指定(第2号)を受けています。

地震前まで、道路側の倉庫跡では「器李家カフェ」というカフェが営業されていました。

危険度判定では赤紙が貼られていて、2階部分の外壁が剥がれるなどしていましたが、すでに綺麗に直されています。

2016年5月13日



隣に家があった痕跡が煉瓦壁にくっきりと残っています。


古町エリアは、西南戦争でも被害が少なかったようで、いまも多くの町家が残っています。


かつて、坪井川を使って積み出していたということもあり、裏手にはその痕跡らしきものも残っています。



2017年2月20日



2017年3月6日



西村邸
熊本県熊本市中央区西唐人町10  


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2017年03月06日

熊本市内を歩く(#2)味噌天神(201605)

熊本市内、取り上げる内容はだいたいは中心部がメインになってしまいますが、地震によって、気づかない間に、変わってしまった光景も少なくありません。また、被害状況なども取り上げていこうと思います。

2回目は、昨年5月時点の味噌天神の状況です。

正式な神社名は、本村神社。
和銅6年(713年)に悪疫が流行した際、平癒を祈願して「御祖天神」を御祭神として祀ったのがはじまりとされていて、それが時代を経て「味噌天神」となった。
味噌天神というのは俗称であり、日本で唯一、味噌に対する利益があるとされることがその由来。


由緒書き(現地案内板より)

味噌天神

旧記には天神社と記され、正式には本村神社であるが、一般的には味噌天神の名で知られ、全国唯一の味噌の神様として崇められている。
伝承によれば、和銅六年(七一三)に悪疫が流行したとき神楽の神「御祖天神」を祀ったのがはじまりで、その後国分寺の味噌蔵の守護神となったので「味噌天神」と呼ばれたという。
神社の境内に生ずる笹は、味噌の味をよくするというので、戦前は各地から貰いに来る人が絶えなかった。学説では天神の御衣を納めた「御衣天神」であろうとされている。


と、由緒深き神社なのですね。

熊本地震で、県道28号に面した鳥居が倒壊。


どこへ…と境内を歩いていたら、有りました。

昨年5月の訪問時は、鳥居の瓦礫が境内に置いてありました。再建されるのが待ち遠しいですね。



社殿も、屋根瓦が剥がれかかっていたり、少し湾曲しているようにも見えました。



ひのくに号に乗ると、目の前に見えているのに、唯一、地震前の写真を撮っていなかったのが心残りです。

味噌天神(本村神社)
熊本市中央区大江本町7-1  


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2017年02月24日

熊本市内を歩く(#1)上通アーケード・金龍堂まるぶん店のかっぱ像

熊本市内、取り上げる内容はだいたいは中心部がメインになってしまいますが、地震によって、気づかない間に、変わってしまった光景も少なくありません。また、被害状況なども取り上げていこうと思います。

1回目の今回は、金龍堂まるぶん店のかっぱ像を紹介します。

熊本市の繁華街、上通アーケード内にある、金龍堂まるぶん店。老舗の書店のひとつです。

金龍堂まるぶん店には、通行人を呼び込もうと店頭に設けられた噴水に、座禅を組むなどしたユニークな3体のかっぱ像が鎮座していて、アーケードを行き交う市民らに、よく親しまれています。

かっぱ像は1970年からだそうですから、45年以上もここで行き交う人を見てきたのですね。知らない人がいるはずがありません。

そのなかで昨年4月の熊本地震によって、金龍堂まるぶん店は臨時閉業に追い込まれました。9割近くの本が落下し、返品を余儀なくされたりしたとか。
閉ざされた店のシャッターには、営業の再開とかっぱ像の再会を待つ市民らの寄せ書きの紙が貼られるなどしていました。

かっぱ像は、震災にもなんとか耐えていて、書店の改修工事を終えて、11月にリニューアルオープンと同時に、再びお目見目しました。


2016年2月撮影


2017年2月撮影



改修工事によって、噴水は少し形を変え、3体が寄り添うようになりましたね。左右のかっぱの位置も違います。
かっぱ像の周りには小銭がたくさん…。いかに、営業再開とかっぱ像への再会を待ち望んでいたかがうかがえますね。
これからは、3体で復興について語り合っていることでしょう。(^^)

地震前のかっぱ像の姿を、改めて、撮っておいて良かったなと思えました。
少ないながらも、記録は大事ですね。


金龍堂 まるぶん店
熊本市中央区上通町5-1  


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