2015年12月23日

筑豊を行く(#4)宿場町・飯塚の名残をみつける(1)

飯塚は江戸時代、長崎街道の宿場町(飯塚宿)として栄えてきました。
しかし、宝永7(1710)年と宝暦9(1795)年に大火に見舞われ、現在は宿場町の面影をとどめていません。
そこで、飯塚文化連合会によって、石碑が建てられています。

今回はそのなかから、麻生大浦荘と嘉穂劇場に行った日に見つけた、3箇所の石碑をまとめて紹介しようとおもいます。

解説は、飯塚観光協会のサイトによる情報を引用させていただきました。
住所については、Googleマップをもとに調べています。

東構口跡 (ひがしかまえぐちあと)

東構口跡石碑は本町入口の前角に建っています。博多往還の南側に構口はあり、現石碑の対面に位置していました。飯塚宿の場合、構口はかつては北・南の呼称を使用していましたが、現在は東・西構口と呼んでいます。

(飯塚市宮町。本町入口交差点そば。※寶月樓跡の石碑が右奥に見えています。なお、観光協会の解説でローソンの名前が出てきたのですがすでに閉店済みにつき、その点は削除。)

寶月樓跡 (ほうげつろうあと)

嚢祖八幡宮鳥居前に帯屋の古川直道の別荘「寶月樓」がありました。寶月樓は前は通行盛んな街道に面し、裏は飯塚川の清流を臨み、東に関の山・英彦山、北に福智の山並みが遠望できる大変風情のある優雅な建物でした。飯塚の文人墨客がここに集い、特に歌人たちは時代を先取りする精神が旺盛で、のちに日本の近代短歌の開拓者として高く評価されるようになる博多の大隈言道を飯塚に招き教えを受けました。大隈言道は嘉永2年(1849)から安政5年(1858)までの10年間、飯塚の門弟の指導を行い歌学の研究に没頭しました。

(飯塚市宮町。※東構口跡の石碑の数十m先にあります。)

住吉宮跡 (すみよしぐうあと)

飯塚宿は陸路の要衝のみならず、ヒラタ船の上下する運河の重要拠点でもありました。寛政7年(1795)市橋小太夫が夢のお告げで石像神体を川底から引き上げ、水神として祭ったと伝えられています。飯塚川に接するこの付近は船頭町で、住吉神社を祭り水路の安全が祈願されました。住吉宮はその後嚢祖八幡宮に合祠されました。境内に植えられた銀杏の大樹は、シメ縄を張り御神木として保護されていましたが、昭和38年飯塚市役所が移転し飯塚郵便局が建設されるに及びその姿を消しました。

(飯塚市本町。飯塚郵便局前)

寶月樓で出てきた大隈言道は、現在の福岡市中央区今泉付近の生まれ。今泉公園のところにはかつてささのや園があり、彼の墓所は香正寺にあります。
どうやって飯塚まで行き来されていたのか、個人的に気になるところです。(山家(冷水峠)経由だとしたら遠回りで…)



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